ADHDでACのオタクがパワハラ受けて適応障害になってEXILEが好きになった話(4じしん)

前回までのあらすじ

その時筆者氏は、パラハラに見舞われた。

自己のマネージング力の低さを知らないリーダーやその他モブアヴェンジャーズによって。

筆者氏はまだ知らなかった。彼らとの五年間の激闘の末、ある日急に全ての感覚が消えてしまうことに……。そして、その時は訪れ、彼女の元に、サイコパスなマネージャーが現れ、こういうのだった。

「君はパワハラを受けたわけじゃないよ」と。

 

 

こういう感じのメンバーの協力プレイで、適応障害になって会社から傷病手当もらって自宅療養中です。

 

前回まで、自分の症状や傷病手当が貰えるまでの過程などを詳しく書いたので、

次は、病状が安定するまでを書いていこうかなと思う。

 

自分の性質を見極めるまで  とある職場での奮闘

 

ADHDであると判明したのは、適応障害の診断を受けた時についでに受けたADHDの診断テストの結果を受けてだった。

 

そもそも、もうとにかく背中が痛くて、まともに思考が働かなくなっているのにもかかわらず、私は会社に行っていた。

そこで、自分の状況を見極めようと無駄な抵抗をしていた。

 

となりの席の、デザイナーのリーダー(後にカウンセラーがオババと名付けるので、今後オババMと呼ぶ。)オババMは傲慢な女だった。

とにかく自分の仕事の仕方でないと、怒る。

「これが正しいでしょ?」と相手に確認し、「そうですね」と言わせたがる人だった。

2年前から、オババがデザイナーのリーダ格から、色々人事異動があって、チームリーダーの役割になったから最悪だった。

オババはリーダーに必要なExcelや統率のスキルが足りなかった。彼女は40近くになるのだが、それまでディレクターやデザイナー、デザイナーリーダーをこなして来たが、ようするにデザイナーとしての能力はあったが、リーダーとして、人を育てるだけの能力は低かった。

そこで、自称ITが向いてる元リーダーの人がサポートに入り、ダブルリーダーという体制で居た。

 

オババの次にデザイナーの歴が長いのは私なので、当然私がデザイナーのリーダーのようなポジションになるかと思ったが、もちろんそうはならなかった。

某有名ECサイトのような長ったらしいキャンペーンページ(縦10,000pixel超えていた。参考までに、普通のキャンペーンページは、人の視認率の高さから考えて、だいたい650pixelくらいに抑えられる。もしくは、重要な情報はだいたいその中に収めて、長くても1000pixel超えか超えないかくらいである。)や、イラストの適当なもの、その他諸々最早デザイナーというよりは泥さらいみたいな仕事も任されていた。

 

私が中心になるような仕事は私に回されなかったのだ。

当然、私は暇になる。それをみかねて、IT向いてるリーダーの方が、私にライターの仕事を振った。

このライターの仕事というのは、1週間に一度、企業のメルマガが配信されるのだが、その中の最初と最後にコラムのような全文と編集後記、そしてアンケートなどのライティングだ。

 

ライティングという仕事がどういうものか分からないと思うので、軽く説明すると、

企業というのは、独自の表記統一が存在している。こういうのは書いちゃダメよとか、こういう表記が正しいので合わせるというルールみたいなものだ。

これに則って、ライターは企業側が欲している文章を書く。

そして、ライティングというのは、非常に手間がかかる。

季節の一文だけでも、その時期の時事、過去の記事との差異、世情、企業のイメージ、さらに企業側の担当が求める空気感、情報の精査、誤字脱字、校正などなど、全てをクリアして月の単位で作るのだ。

 

つまり、コラム2本×4本が常に私の業務を圧迫する。

普通のライターなら、これぐらいの分量だと、だいたい二ヶ月前に企業がとの交渉を終えて、仕事を半年単位で受注してスケジュールを決めている。(上司に確認した)

だが、私の場合は、毎月毎月、集計されたデータを見たり、私が提案したコラムを見てお客さんからのフィードバックが入るのだ。

そして、ここで普通ならディレクターが仲介に入って私のスケジュールを調整したり、校正の打ち合わせや、方向性などをお客さんに提案して調整を図る。

ところが、私の相棒とも言えるディレクターの40代のおっさんはこれができなかった。

よく居る、お客さんの言いなりで、案件の全体が見渡せず、とんちんかんなことをし続けて現場を混乱させる、仕事ができないおっさんだった。

 

こいつに何回も叱責されたが、こいつは自分の仕事の荒さを私に押し付けて、叱責して居るのである。自分の尻尾を齧っている蛇をイメージするが、まあ、自滅型のおっさんが私の相棒だった。

こうなると、仕事はめちゃくちゃになる。

必死にライターとしてミスがないようにこなしながら、オーバーワークを続ける。

だが、残業はするなと、オババには責められる。

そして、デザイナーなので当然、私には面倒なデザインの仕事がオババによって押し付けられる。(私はメンバーの中で一番手が早いのだ。当然だが)

オババのヤベーところは、自分が気が向いた時に私の仕事を奪ったり、30代のディレクターの女と結託して私の仕事を監視しているところだ。

 

様々な消耗が重なって、私は自分の仕事の仕方に疑問を抱いた。

 

「何でこんなに仕事をしているのに、信頼されないんだろう」

 

後々気付いたのだが、これはADHDの特徴だった。

注意欠陥障害を持っているので、ミスをする。そして、そのミスを挽回できないが、ほかの能力値が高いため、周りとの衝突は続く。

注意欠陥障害は女性に多いらしいのだが、この場合、自分を責めて鬱になっていく人も多いと聞く。

 

凡ミスがあるが、仕事はこなす。ただし、会話やコミュニケーション能力は、相手の理解がないと一人では進まない。

評価されないので、自信は無くしていく。そうしていくと、周りも当然のように私を評価されない人として扱い、泥さらいを任せる。この悪循環が、続いて、私はどうにかしたいと思った。

 

スケジュールのミスが続いたので、自分のパソコンにアラートが立ち上がるようにソフトを二ついれて、常にスケジュールをカレンダーに記入して、その日の仕事の状況やスケジュールを全てアラートが立ち上がるようにしていた。

どうしても校正でミスをするので、デザインはスケルトンの段階で、一度ディレクターに確認出ししていた。自分の業務の透明化を図っていた。

 

それでも、ミスは起きる。

そうすると、隣のオババから責められる。自称ITが向いているリーダーにも責められた。

そこで、ようやく自分の性質が人と違うのではないかと思い始めた。

ネットで、ADHDという人の性質を知り、それが自分に当てはまると思っていた。

IT向いてるリーダーに一度、ミスを責められて、信頼されないことを言われた時に「これは多分病気だと思います」と答えた。だが、彼は「そんなの言い訳にすぎない。大人何だから、自分で対処しろ」と跳ね除けた。

 

その言葉を言われてから一ヶ月後に、私は40代のおっさんに叱責されて、会社を去ることになる。

今でもたまに思い出す。

 

誰か一人でも、あの時の私の言葉を理解して、そしていっしょに解決しようと言ってくれる上司が居たら、仲間が居たら、私は適応障害にはなっていなかったかもしれないと。

 

けれどもと、思う。過去は変わらないのだ。

そして、今だから思うのだが、彼らにはリーダーたる資質がなかった。

チームメイトたる資格は無かった。自分の仕事をわかって居なかった。

 

IT企業戦士というのは、案件において、チームプレイでこなす。誰かが倒れないように、助け合って、補い合って無茶なスケジュールをこなすのだ。

彼らは、戦友ではない。

ただの、暴力を働いた他人である。

 

自分の性質を見極めるまで 療養への道

 

適応障害は、ある条件の状況下に置いて発動する。

私の場合は、会社に関係する様々なことが引き金になっているようだ。

 

電車に乗ること。体調にもよるが、ある一定を越えると気持ち悪くなる。

外食すること。人の目が怖くなる。

人と関係を気付くこと。影で私の無能さをせせ笑っているのではないかと思う。

食事をすること。療養開始から半年でようやく自主的に空腹になる。

人と会話すること。本当は、私のことなどどうでもいいのではないかという気持ちに支配される。

 

主治医に言われただが、人間には自己治癒能力があるので、

鬱でもだいたい3ヶ月から半年で元に治るという。

ADHDと鬱が複雑に絡んでいるため、まずはADHDの症状を緩和するためにストラテラという病気によく効くお馴染みの薬を飲んだ。

 

療養開始から、およそ3ヶ月は、まともに外に出れなかった。

単純に外に出るほどの体力がなく、気持ち悪くなって背中が痛くなる。

だれかが私を見ているのではないか、自分は病気だから変な目で見られるのではないか。

ただ、部屋の中に居て、ゴミを生成し、風呂に何日かおきに入り、そして目を閉じる。

 

最初の1ヶ月くらいは、短期記憶障害のような状態になった。

完全に、全ての状況を理解できずに、名称も覚えられず、物事を論理的に組み立てて理解できない。

その状態で、傷病手当の申請などは結構大変だった。

 

私の鬱の状態は、おそらく入院まではいかないまでも、そこそこ酷かった気がする。

2週間に一度の通院も苦痛なほど、外に出るのがキツかった。

眠れないし、悪夢を見る。起きる時間も寝る時間もまばらで、ベッドの中で、そうか自分は鬱なのだと思い知ってドンヨリする。それでも、世界には膜が張って居て、そこから抜け出せない。

 

ベッドの中で、夢の中で何度も何度もリフレインする。

職場で言われたこと、されたこと、両親に理解されないこと、何処にもいきようがないこと。

そして何処かで、もう二度と仕事がしたくないこと。

 

ただただ、とりとめのないことを考えて、そして何もまともに読めないし、見れない状態が続いた。

 

そんな状態なのに、最悪なことに、私は同人誌イベントを入れて居た。

私がお気に入りのアニメのオンリーイベントでそこそこ大きく、私はそれに出るのを楽しみにして居たのだ。

 

結果的には良かったと思う。

私は、前のジャンルで手酷い裏切りを受けていた。

ジャンルを潰すほどのサイコパスと友達になり、彼女に八つ当たりを受けたり、悪口を言われたり、年下の子に他の大手と仲良くなる踏み台にされたり、そしてよく居る大手に擦り寄りたいBBAにも裏切られたり、まあ散々だった。

 

もうSNSで擦り寄り大会はもういいかなと思い、ほとんど前情報を仕入れず、コピー本だけ作って、ちょっとだけの予告をして、そして体調悪くなったら帰ることを書いて向かった。

体力ゲージが最初の村の主人公が激弱なモンスターに攻撃された時よりも弱っていたので、欲しかった本だけを手に入れてサークルスペースに戻ると、待ってくれて居る人がいた。

そこから少し列ができたりなどして、コピー本は、そんなに多くはないがそれなりに人の手に渡った。そして、最初に待ってくれた人は、適当に載せていた話をとても好きだと感想をくれたのだ。

 

これは、凄く嬉しかった。

前のジャンルでは、散々馬鹿にされていたと感じたけれど、一応島端配置(ちょっとばかし売れる場所)になっていたし、新しいジャンルに行ってもどうやら私はもしかしたらそれなりに小説は書けるのかもしれないなあ。(二次創作だが)と思った。

 

そこから、似たような毎日だったが、食欲もなく、引きこもり、行く末に対して何も光がなく、傷病手当の手続きに手こずっていたりした。

引きこもり1ヶ月後に、私の病気のことを知った母の親友(この人が後々助けてくれるのでマダムHと呼ぶ)マダムHから連絡があった。彼女に諭され、母と2人で車に乗ってやってきて、そして私を連れ帰り自宅で療養することになった。

 

 あまりよく覚えてないが、鬱が酷い私は、ボンヤリしていたし、ものも食べなかったが、実家で預かっていた猫とお昼寝したりしていた。

 

母は、私の病気への理解がないため、

パワハラを受けたのは私にも非があったのではないかとか、

弱って帰ってきた娘に「そんなに苦しいなら、産んであげないほうがよかった?」と聞いてきたりした。

鬱の人に言ってはいけない言葉というものがあるのだが、私の母親は帰ってきて3日目くらいまでにそれを全て言ってきた。

私を怒鳴って起こしたし、無理矢理呼びつけた兄となぜか車で出かけたりした。

※三半規管が弱って居るのか、車に乗るとすぐに酔う。

嫌がる私に愚痴をよく言ったり、父と揉めたり、相変わらずだった。

 

その間に私はストラテラという薬の調整に苦しんだ。

人にもよるが、私は薬がよく効く体質で、一番少ない単位でもまず服用1ヶ月目は飲むと猛烈な眠気に襲われるし、頭が痛くなって、異常に気持ち悪くなった。

これのせいで、睡眠サイクルが乱れに乱れて、余計に情緒不安定に陥った。

それでも、飲み続けていくうちに、2ヶ月目くらいでようやく睡眠サイクルが安定し、メンタルが落ち着き始めた。

今でこそようやく認められるが、私は薬を飲むのが嫌だった。主治医に、薬を飲めば早く改善すると言われて、ようやく折れて飲み始めたくらいだ。

だって私が「人と違うこと」を認めるのは怖い。私は、努力をしないと、社会ではまともに生きられない。それを、認めたくない。「頑張っている子」なんてカッコよくない。私は可哀想な子じゃない。

私は本当にADHDなのか? 気のせいではないのか? と思ったのだが、2ヶ月目くらいで、薬が順調に効き始めると、物事を全体的に把握できるようになり、論理的に言えるようになり、集中力も少しづつだが改善した。多分、発病前くらいより少し良いくらいまでに戻ったが、この薬の効き方で、私は自分の病気を認めることがようやくできた。

 

その間に傷病手当攻防は終わり、新卒時代から私に目をかけてくれた上司H(この上司が後々助けてくれるので上司Hと表記を改める)と会ってゆっくり話したりするうちに、私を上司Hの部署に引っ張ってくれると提案してくれた。

 

部署を移動するための書類を作成し、薬の調整に目処がたち、ここでようやく初めて傷病手当金が下りた。

そこでようやく生活に目処ができると思い、私は自分の家に帰ることにした。

 

私が実家に戻ったことにより、母は仕事が増え、色々と苛立っていたし、何よりその1ヶ月間の間で私は、彼らとは基本的に生活リズムが合わないし、考え方も違うと思ったのだ。

 

母は、実家に戻ってくればいいと私に何度も言ったが、私はそれを拒否した。

それならばと、私の病院に一緒についてきた。

 

まず心理士(カウンセラー)とカウンセリングをするのだが、そこで母は心理士に自分の不幸や、私が他と違うことは今の今まで知らなかったと言って、自分の子育てが否定されたようなきもちに陥って居ると訴えた。

心理士は、私の心理士なので、彼女にカウンセリングを希望するならほかの心理士を紹介しますよと提案して、母はそれを聞き流してさらにまくし立てていた。そのあたりで、心理士は母を退出させた。

私はその時、母と心理士のやり取りを見て、ようやく「自分の感じていた違和感の正しさ」を知った。

 

彼女は、「子供のアラート」を無視する人だった。

無視しているというよりは「感知できない」人だったのかもしれない。

それは何故か、彼女は「彼女のこと」で世界が支配されて居るのだ。

彼女の世界は、主人公は彼女だけで、その他の人物たちの気持ちを理解して、それに対処するのは難しいのだろう。

もしかしたら「彼女なりに」理解して居るのかもしれないが、それは一般的な水準を大きく下回って、彼女が思うほど「一般的な母親」とはかけ離れて居るのだ。

 

食事の面で言えば、流石に栄養価の高いものを食べさせてくれし、バランスは取れたのだろう。血液検査での数値では、様々な改善が見られたが、私は「私の心」を優先するために家に帰った。

 

私はあの時の決断は、英断だったと思う。

何故なら、一年近く経った今でも、母は私の病気を理解していないし、本当は「私の気のせい」ではないのかという本音がちらほらと伺える。

そんな人のそばには居られないのだ。

私は、自分自身の力で、立ち直って、自分自身の力で生きていくことを選択しなければならない。

 

私は、あの時に自分自身でも疑っていた「病気」を認めた。

私は、医学的に見ても「病人」なのだ。

そして、先天性の病を持っていても人は環境によって気付かないで一生を終えることができる病気を持っていた。

 

私を「適応障害」にしたのは、会社の責任であり、私はADHDの特性を持っていて、現在は「療養中」である。

 

今、たまに話題に上るヘルプマークを、私は発病して1週間くらいの、非常に体力がない状態で取りに行った。受け取った時、私はまともではないのだとその赤いマークを見て思った。今は、そのマークを常に鞄につけることに躊躇は無くなった。

私は健常者のように、電車に長時間立って出勤はできないし、経済活動も上手くこなすことは出来ない。

 

私のことを本当に理解し、治していくのは「私なのだ」と、ようやく考えることができた。

 

つづく