ADHDでACのオタクがパワハラ受けて適応障害になってEXILEが好きになった話(4じしん)
前回までのあらすじ
その時筆者氏は、パラハラに見舞われた。
自己のマネージング力の低さを知らないリーダーやその他モブアヴェンジャーズによって。
筆者氏はまだ知らなかった。彼らとの五年間の激闘の末、ある日急に全ての感覚が消えてしまうことに……。そして、その時は訪れ、彼女の元に、サイコパスなマネージャーが現れ、こういうのだった。
「君はパワハラを受けたわけじゃないよ」と。
こういう感じのメンバーの協力プレイで、適応障害になって会社から傷病手当もらって自宅療養中です。
前回まで、自分の症状や傷病手当が貰えるまでの過程などを詳しく書いたので、
次は、病状が安定するまでを書いていこうかなと思う。
自分の性質を見極めるまで とある職場での奮闘
ADHDであると判明したのは、適応障害の診断を受けた時についでに受けたADHDの診断テストの結果を受けてだった。
そもそも、もうとにかく背中が痛くて、まともに思考が働かなくなっているのにもかかわらず、私は会社に行っていた。
そこで、自分の状況を見極めようと無駄な抵抗をしていた。
となりの席の、デザイナーのリーダー(後にカウンセラーがオババと名付けるので、今後オババMと呼ぶ。)オババMは傲慢な女だった。
とにかく自分の仕事の仕方でないと、怒る。
「これが正しいでしょ?」と相手に確認し、「そうですね」と言わせたがる人だった。
2年前から、オババがデザイナーのリーダ格から、色々人事異動があって、チームリーダーの役割になったから最悪だった。
オババはリーダーに必要なExcelや統率のスキルが足りなかった。彼女は40近くになるのだが、それまでディレクターやデザイナー、デザイナーリーダーをこなして来たが、ようするにデザイナーとしての能力はあったが、リーダーとして、人を育てるだけの能力は低かった。
そこで、自称ITが向いてる元リーダーの人がサポートに入り、ダブルリーダーという体制で居た。
オババの次にデザイナーの歴が長いのは私なので、当然私がデザイナーのリーダーのようなポジションになるかと思ったが、もちろんそうはならなかった。
某有名ECサイトのような長ったらしいキャンペーンページ(縦10,000pixel超えていた。参考までに、普通のキャンペーンページは、人の視認率の高さから考えて、だいたい650pixelくらいに抑えられる。もしくは、重要な情報はだいたいその中に収めて、長くても1000pixel超えか超えないかくらいである。)や、イラストの適当なもの、その他諸々最早デザイナーというよりは泥さらいみたいな仕事も任されていた。
私が中心になるような仕事は私に回されなかったのだ。
当然、私は暇になる。それをみかねて、IT向いてるリーダーの方が、私にライターの仕事を振った。
このライターの仕事というのは、1週間に一度、企業のメルマガが配信されるのだが、その中の最初と最後にコラムのような全文と編集後記、そしてアンケートなどのライティングだ。
ライティングという仕事がどういうものか分からないと思うので、軽く説明すると、
企業というのは、独自の表記統一が存在している。こういうのは書いちゃダメよとか、こういう表記が正しいので合わせるというルールみたいなものだ。
これに則って、ライターは企業側が欲している文章を書く。
そして、ライティングというのは、非常に手間がかかる。
季節の一文だけでも、その時期の時事、過去の記事との差異、世情、企業のイメージ、さらに企業側の担当が求める空気感、情報の精査、誤字脱字、校正などなど、全てをクリアして月の単位で作るのだ。
つまり、コラム2本×4本が常に私の業務を圧迫する。
普通のライターなら、これぐらいの分量だと、だいたい二ヶ月前に企業がとの交渉を終えて、仕事を半年単位で受注してスケジュールを決めている。(上司に確認した)
だが、私の場合は、毎月毎月、集計されたデータを見たり、私が提案したコラムを見てお客さんからのフィードバックが入るのだ。
そして、ここで普通ならディレクターが仲介に入って私のスケジュールを調整したり、校正の打ち合わせや、方向性などをお客さんに提案して調整を図る。
ところが、私の相棒とも言えるディレクターの40代のおっさんはこれができなかった。
よく居る、お客さんの言いなりで、案件の全体が見渡せず、とんちんかんなことをし続けて現場を混乱させる、仕事ができないおっさんだった。
こいつに何回も叱責されたが、こいつは自分の仕事の荒さを私に押し付けて、叱責して居るのである。自分の尻尾を齧っている蛇をイメージするが、まあ、自滅型のおっさんが私の相棒だった。
こうなると、仕事はめちゃくちゃになる。
必死にライターとしてミスがないようにこなしながら、オーバーワークを続ける。
だが、残業はするなと、オババには責められる。
そして、デザイナーなので当然、私には面倒なデザインの仕事がオババによって押し付けられる。(私はメンバーの中で一番手が早いのだ。当然だが)
オババのヤベーところは、自分が気が向いた時に私の仕事を奪ったり、30代のディレクターの女と結託して私の仕事を監視しているところだ。
様々な消耗が重なって、私は自分の仕事の仕方に疑問を抱いた。
「何でこんなに仕事をしているのに、信頼されないんだろう」
後々気付いたのだが、これはADHDの特徴だった。
注意欠陥障害を持っているので、ミスをする。そして、そのミスを挽回できないが、ほかの能力値が高いため、周りとの衝突は続く。
注意欠陥障害は女性に多いらしいのだが、この場合、自分を責めて鬱になっていく人も多いと聞く。
凡ミスがあるが、仕事はこなす。ただし、会話やコミュニケーション能力は、相手の理解がないと一人では進まない。
評価されないので、自信は無くしていく。そうしていくと、周りも当然のように私を評価されない人として扱い、泥さらいを任せる。この悪循環が、続いて、私はどうにかしたいと思った。
スケジュールのミスが続いたので、自分のパソコンにアラートが立ち上がるようにソフトを二ついれて、常にスケジュールをカレンダーに記入して、その日の仕事の状況やスケジュールを全てアラートが立ち上がるようにしていた。
どうしても校正でミスをするので、デザインはスケルトンの段階で、一度ディレクターに確認出ししていた。自分の業務の透明化を図っていた。
それでも、ミスは起きる。
そうすると、隣のオババから責められる。自称ITが向いているリーダーにも責められた。
そこで、ようやく自分の性質が人と違うのではないかと思い始めた。
ネットで、ADHDという人の性質を知り、それが自分に当てはまると思っていた。
IT向いてるリーダーに一度、ミスを責められて、信頼されないことを言われた時に「これは多分病気だと思います」と答えた。だが、彼は「そんなの言い訳にすぎない。大人何だから、自分で対処しろ」と跳ね除けた。
その言葉を言われてから一ヶ月後に、私は40代のおっさんに叱責されて、会社を去ることになる。
今でもたまに思い出す。
誰か一人でも、あの時の私の言葉を理解して、そしていっしょに解決しようと言ってくれる上司が居たら、仲間が居たら、私は適応障害にはなっていなかったかもしれないと。
けれどもと、思う。過去は変わらないのだ。
そして、今だから思うのだが、彼らにはリーダーたる資質がなかった。
チームメイトたる資格は無かった。自分の仕事をわかって居なかった。
IT企業戦士というのは、案件において、チームプレイでこなす。誰かが倒れないように、助け合って、補い合って無茶なスケジュールをこなすのだ。
彼らは、戦友ではない。
ただの、暴力を働いた他人である。
自分の性質を見極めるまで 療養への道
適応障害は、ある条件の状況下に置いて発動する。
私の場合は、会社に関係する様々なことが引き金になっているようだ。
電車に乗ること。体調にもよるが、ある一定を越えると気持ち悪くなる。
外食すること。人の目が怖くなる。
人と関係を気付くこと。影で私の無能さをせせ笑っているのではないかと思う。
食事をすること。療養開始から半年でようやく自主的に空腹になる。
人と会話すること。本当は、私のことなどどうでもいいのではないかという気持ちに支配される。
主治医に言われただが、人間には自己治癒能力があるので、
鬱でもだいたい3ヶ月から半年で元に治るという。
私ADHDと鬱が複雑に絡んでいるため、まずはADHDの症状を緩和するためにストラテラという病気によく効くお馴染みの薬を飲んだ。
療養開始から、およそ3ヶ月は、まともに外に出れなかった。
単純に外に出るほどの体力がなく、気持ち悪くなって背中が痛くなる。
だれかが私を見ているのではないか、自分は病気だから変な目で見られるのではないか。
ただ、部屋の中に居て、ゴミを生成し、風呂に何日かおきに入り、そして目を閉じる。
最初の1ヶ月くらいは、短期記憶障害のような状態になった。
完全に、全ての状況を理解できずに、名称も覚えられず、物事を論理的に組み立てて理解できない。
その状態で、傷病手当の申請などは結構大変だった。
私の鬱の状態は、おそらく入院まではいかないまでも、そこそこ酷かった気がする。
2週間に一度の通院も苦痛なほど、外に出るのがキツかった。
眠れないし、悪夢を見る。起きる時間も寝る時間もまばらで、ベッドの中で、そうか自分は鬱なのだと思い知ってドンヨリする。それでも、世界には膜が張って居て、そこから抜け出せない。
ベッドの中で、夢の中で何度も何度もリフレインする。
職場で言われたこと、されたこと、両親に理解されないこと、何処にもいきようがないこと。
そして何処かで、もう二度と仕事がしたくないこと。
ただただ、とりとめのないことを考えて、そして何もまともに読めないし、見れない状態が続いた。
そんな状態なのに、最悪なことに、私は同人誌イベントを入れて居た。
私がお気に入りのアニメのオンリーイベントでそこそこ大きく、私はそれに出るのを楽しみにして居たのだ。
結果的には良かったと思う。
私は、前のジャンルで手酷い裏切りを受けていた。
ジャンルを潰すほどのサイコパスと友達になり、彼女に八つ当たりを受けたり、悪口を言われたり、年下の子に他の大手と仲良くなる踏み台にされたり、そしてよく居る大手に擦り寄りたいBBAにも裏切られたり、まあ散々だった。
もうSNSで擦り寄り大会はもういいかなと思い、ほとんど前情報を仕入れず、コピー本だけ作って、ちょっとだけの予告をして、そして体調悪くなったら帰ることを書いて向かった。
体力ゲージが最初の村の主人公が激弱なモンスターに攻撃された時よりも弱っていたので、欲しかった本だけを手に入れてサークルスペースに戻ると、待ってくれて居る人がいた。
そこから少し列ができたりなどして、コピー本は、そんなに多くはないがそれなりに人の手に渡った。そして、最初に待ってくれた人は、適当に載せていた話をとても好きだと感想をくれたのだ。
これは、凄く嬉しかった。
前のジャンルでは、散々馬鹿にされていたと感じたけれど、一応島端配置(ちょっとばかし売れる場所)になっていたし、新しいジャンルに行ってもどうやら私はもしかしたらそれなりに小説は書けるのかもしれないなあ。(二次創作だが)と思った。
そこから、似たような毎日だったが、食欲もなく、引きこもり、行く末に対して何も光がなく、傷病手当の手続きに手こずっていたりした。
引きこもり1ヶ月後に、私の病気のことを知った母の親友(この人が後々助けてくれるのでマダムHと呼ぶ)マダムHから連絡があった。彼女に諭され、母と2人で車に乗ってやってきて、そして私を連れ帰り自宅で療養することになった。
あまりよく覚えてないが、鬱が酷い私は、ボンヤリしていたし、ものも食べなかったが、実家で預かっていた猫とお昼寝したりしていた。
母は、私の病気への理解がないため、
パワハラを受けたのは私にも非があったのではないかとか、
弱って帰ってきた娘に「そんなに苦しいなら、産んであげないほうがよかった?」と聞いてきたりした。
鬱の人に言ってはいけない言葉というものがあるのだが、私の母親は帰ってきて3日目くらいまでにそれを全て言ってきた。
私を怒鳴って起こしたし、無理矢理呼びつけた兄となぜか車で出かけたりした。
※三半規管が弱って居るのか、車に乗るとすぐに酔う。
嫌がる私に愚痴をよく言ったり、父と揉めたり、相変わらずだった。
その間に私はストラテラという薬の調整に苦しんだ。
人にもよるが、私は薬がよく効く体質で、一番少ない単位でもまず服用1ヶ月目は飲むと猛烈な眠気に襲われるし、頭が痛くなって、異常に気持ち悪くなった。
これのせいで、睡眠サイクルが乱れに乱れて、余計に情緒不安定に陥った。
それでも、飲み続けていくうちに、2ヶ月目くらいでようやく睡眠サイクルが安定し、メンタルが落ち着き始めた。
今でこそようやく認められるが、私は薬を飲むのが嫌だった。主治医に、薬を飲めば早く改善すると言われて、ようやく折れて飲み始めたくらいだ。
だって私が「人と違うこと」を認めるのは怖い。私は、努力をしないと、社会ではまともに生きられない。それを、認めたくない。「頑張っている子」なんてカッコよくない。私は可哀想な子じゃない。
私は本当にADHDなのか? 気のせいではないのか? と思ったのだが、2ヶ月目くらいで、薬が順調に効き始めると、物事を全体的に把握できるようになり、論理的に言えるようになり、集中力も少しづつだが改善した。多分、発病前くらいより少し良いくらいまでに戻ったが、この薬の効き方で、私は自分の病気を認めることがようやくできた。
その間に傷病手当攻防は終わり、新卒時代から私に目をかけてくれた上司H(この上司が後々助けてくれるので上司Hと表記を改める)と会ってゆっくり話したりするうちに、私を上司Hの部署に引っ張ってくれると提案してくれた。
部署を移動するための書類を作成し、薬の調整に目処がたち、ここでようやく初めて傷病手当金が下りた。
そこでようやく生活に目処ができると思い、私は自分の家に帰ることにした。
私が実家に戻ったことにより、母は仕事が増え、色々と苛立っていたし、何よりその1ヶ月間の間で私は、彼らとは基本的に生活リズムが合わないし、考え方も違うと思ったのだ。
母は、実家に戻ってくればいいと私に何度も言ったが、私はそれを拒否した。
それならばと、私の病院に一緒についてきた。
まず心理士(カウンセラー)とカウンセリングをするのだが、そこで母は心理士に自分の不幸や、私が他と違うことは今の今まで知らなかったと言って、自分の子育てが否定されたようなきもちに陥って居ると訴えた。
心理士は、私の心理士なので、彼女にカウンセリングを希望するならほかの心理士を紹介しますよと提案して、母はそれを聞き流してさらにまくし立てていた。そのあたりで、心理士は母を退出させた。
私はその時、母と心理士のやり取りを見て、ようやく「自分の感じていた違和感の正しさ」を知った。
彼女は、「子供のアラート」を無視する人だった。
無視しているというよりは「感知できない」人だったのかもしれない。
それは何故か、彼女は「彼女のこと」で世界が支配されて居るのだ。
彼女の世界は、主人公は彼女だけで、その他の人物たちの気持ちを理解して、それに対処するのは難しいのだろう。
もしかしたら「彼女なりに」理解して居るのかもしれないが、それは一般的な水準を大きく下回って、彼女が思うほど「一般的な母親」とはかけ離れて居るのだ。
食事の面で言えば、流石に栄養価の高いものを食べさせてくれし、バランスは取れたのだろう。血液検査での数値では、様々な改善が見られたが、私は「私の心」を優先するために家に帰った。
私はあの時の決断は、英断だったと思う。
何故なら、一年近く経った今でも、母は私の病気を理解していないし、本当は「私の気のせい」ではないのかという本音がちらほらと伺える。
そんな人のそばには居られないのだ。
私は、自分自身の力で、立ち直って、自分自身の力で生きていくことを選択しなければならない。
私は、あの時に自分自身でも疑っていた「病気」を認めた。
私は、医学的に見ても「病人」なのだ。
そして、先天性の病を持っていても人は環境によって気付かないで一生を終えることができる病気を持っていた。
私を「適応障害」にしたのは、会社の責任であり、私はADHDの特性を持っていて、現在は「療養中」である。
今、たまに話題に上るヘルプマークを、私は発病して1週間くらいの、非常に体力がない状態で取りに行った。受け取った時、私はまともではないのだとその赤いマークを見て思った。今は、そのマークを常に鞄につけることに躊躇は無くなった。
私は健常者のように、電車に長時間立って出勤はできないし、経済活動も上手くこなすことは出来ない。
私のことを本当に理解し、治していくのは「私なのだ」と、ようやく考えることができた。
つづく
ADHDでACのオタクがパワハラ受けて適応障害になってEXILEが好きになった話(3)
前回までのあらすじ
職場でクレイジーなブスリーダーから受けたパワハラや、横文字大好き業界によく居る無自覚な人種差別主義者のリーダーによる協力プレイで心を病んでようやく病院で適応障害の診断を受けるも、サイコパスなマネージャーに傷病手当を受け取ることに妨害を受けるなどをする激動の1ヶ月。
ワンクールドラマだったらこういうことは最初の一話くらいで終ると思うが、ドラマじゃないので、これがパワハラを5年くらい、マネージャーとの攻防は半年くらいかけて色々と起きる。ちなみに親との戦いも一生続く。よく生きてたなあと今でも思う。
自分の性質について
最近よく聞くADHDという言葉は、ツイッターをおやりのみなさんにはおなじみかと思うが、さらにAC(アダルトチルドレン)という環境から起きる環境から起きる種類名みたいなものも持っている。これを説明しないと次に進まないので、今回は説明する。
ADHDということについて
これは、よく聞くと思うが改めて書くと、脳の障害である。産まれながらの障害なので、これは誰のせいでもない。天から与えられたものだと思って、私は処理している。
私はその中でも、注意欠陥障害。つまり集中力が続かずに、人ができる当たり前のことができない。
忘れ物をしたり、その場の空気が読めずに変な発言をしたり、興味がないことが覚えられない。集中力が続かないので、論理的な会話も途中で思いついたことをポンと言って外れる。ようするに会話もうまくできないのだ。
一つのことに集中できずに、人の顔も覚えられないし、人の名前もすぐに忘れる。予定も、仕事の進め方も単純なミスもよく起きて居た。
それでも、私がこの歳になるまでその性質に気付かなかったのは、
単純に私は自分のことを愛して居なかったし、誰からも愛されて居なかった。
いや、大切にして居た、大切にしようとして居た、愛そうとしてくれた、愛した人もいたと思う。大学では親友が出来たし、それまでいじめというイジメはあまり受けていなかった。
でも、それはなぜのかというと、自分のことを無価値で、本当は人と違う何かをあるけれど、それは中途半端なもので、スーパーヒーローや天才とはほど遠い、対して特徴のないもの。
という風に最終的には思っていたから。どこに行っても、どの集団に属しても絶対に目立ってしまうが、自分のことを無価値だと思っている人間は、周りからもそう扱われる。
だからこそ、私はこの歳になるまで、自分の性質に気づいていなかった。
そして、この性質になって改めて自分のことを見返すと、以下のような自己紹介になる。
芸術的才能にある程度優れ、色彩感覚、音楽的感覚は敏感。手先は器用で、最新のファッションやアクサリートレンドに敏感。映像記憶(音声はない)、人の気づいていない性質を捉える感覚が強い。
少し長くなったが、私は「芸術」関係には強い注意欠陥障害ということになる。
だから、感覚的に物事や建物、空間や音階も捉えているため、それを共通認識の持たない他者に伝えるのが苦手だし、集中力も続かない。
自分の考えていることを伝えるのも下手くそだし、人との約束もスケジュールを脳内で空間的に覚えていることがあるので間違えることもあるし、それを確認しない。遅刻は、忘れるというよりは間に合わないという感覚が正しい。
これは、社会人としてかなり致命的な欠点だ。
そして、アンラッキーなことに、私にその致命的な欠点を「どうしてそうなったのか、そしてそのことに対する対処法」をきちんと示してくれる上司に出会わなかった。
それでもどうして、この歳までデザイナーとしてやってこれたのか、私もよくわからない。
きっと、いろんな人が私の尻拭いをしたし、裏で私の仕事を引き継いだ人はいっぱいいただろう。
だがそれだけではない。
私は「中途半端にも」色彩感覚、芸術的センスやスキルが高いのだ。
ミスはするが手が早く、人の話を聞いていないし論理的に話していないように見えて、お客さんが納得するレベルの制作物を作ることができるのだ。
だが、上司は面白くない。そんな部下は使いにしくし、特に自分のやり方を押し付けたい人や、私の人の話を聞かなかったり、集団に属せない性質からくる一匹オオカミイメージが気にくわないタイプの囲い込みタイプの上司は、特に私を嫌った。
アンラッキーなことに、私にパワハラを働いた直属の上司であるリーダーのブスはその、自分の意見を通したい女王様タイプだった。自分のルールが全てであり、私のやり方やデザインの仕方、それらを徹底的に正したかった。
結果としては、私はその彼女のやりかたを受け入れた。そして、デザイナーとして、かなり手の早い、物事を進められるそれなりに出来るタイプにはなった。だが、基本的な「どうして」の部分が集中力がないとポロンと抜けてしまうと、声を上げて怒り狂われるようになった。
今になって思うが、彼女と私の相性は最悪だったのだ。
彼女は「どうしてそれができないの? 何か理由はあるの? それを一緒に直していこう」が言えない、考えられないタイプだった。それは、リーダーとしては致命的な資質だ。人の上に立つということは、羊飼いになるのと一緒だ。羊を追う犬を手に入れてでもいいし、先に美味しい草があると示していい。食いつきが悪い羊に声をかけて、医者を呼んだり、時には手入れをして、ふさふさの毛や肉を蓄えささせて、対価を得るのが羊飼いの役目だ。彼女は、羊飼いではなく、ただの狼だった。それは要するに、人ではなく、獣だ。獣には獣の役目があるが、羊飼いの役目は果たせない。彼女はその辺りを、読み違えていたのだと思う。
なんだか話が逸れてしまったが、私の性質の一つ目はこんな感じ。
・注意欠陥障害
・どの集団に属しても悪目立ちする
・常に個性的だねと言われる
・芸術的センスはそれなりにある
・手先が器用
・論理的な会話ができない(相手との会話を全体的に捉えられず、自分の考えを物語を進めるように先行で進めてしまうため)
・遅刻をするというより、その約束の時間にたどり着けないという感覚(言い方は違うが要するに遅刻する)
・同じ食べ物しか食べない
・異常によく寝る
・物語を書く、小説を書くということに対しては異常な集中力がある
・集中力が続かずに、五分前のこともわすれたり、凡ミスを繰り返す
私の主治医は、私が適応障害になったのは、ADHDの気質が大きく起因していると分析した。
私は、自分が「普通」ではないことがストレスだ。
周りと違うことを無自覚だが、周りから指摘され続けているうちに、全て自分にフィードバックする。
私は昔からこう言われることが、一番嫌いだった。
「期待しているよ」
私は、普通ではない。期待には応えられない。
療養が進んだ今なら、それに補足を付け加えられる。
「貴方が望むような、はっきりとした形は、わたしには分からないのです。幸せや成功は、人によって異なるので、わたしにもわかるように何が貴方の期待に応えることなのか、明確に数値で教えてくれませんか?」
わたしに期待しているよなんていう輩は、こんな質問をされたら大抵激昂するだろう。
残念ながら、怒られても、私は何故怒るのか分からないのだ。
AC(アダルトチルドレン)について
アダルトチルドレンと聞いて、全然ピンとこないと思うので説明すると、
アメリカ人だったと思うがとある心理学者が特に「アルコール依存症」が居る家庭の子ども達には問題行動やある共通の心理的問題を抱えることがわかった。らしい。
要するに、「依存症」という問題を抱えている両親を持つ家庭の中で育った子ども達の多くは「問題」を抱えることが多いのだ。
いろんな文献や、助成グループの人たちの説明があると思うので、気になったら自分で調べてもらいたい。
突然だが、私の父親は「アルコール依存症」である。
アルコール依存症と、買い物依存症、そして恐らく何かしかの脳の病気を抱えている。
彼は、様々な問題行動を起こしている。
・物心つくまで、彼が家にいた記憶がほとんどない
・瞬間的にブチ切れる、所謂激昂型
・お金を使い込み、母の財布からクレジットカードを盗み使い込み、見知らぬ弁護士から連絡が来る
・金融機関から借金を重ね、母がその支払いを何度かしたこともある
うちは、昔からお金のことで揉めていた。
だが、それより問題だったのは、
「私の父は、娘を性的な目で見ている」
だった。
これは、娘が居る父親である友人は理解してくれたのだが、
父親という生き物は、「普通ならば」娘を、「女」として認識していない。
娘の胸や性器を見てもなんとも思わないし、ただ守って、娘の成長を見守りたい生き物なのだ。
だが、私の父は違った。
幼い頃、父は私が7歳になるまで一緒に風呂に入りたがった。性器の存在や、無許可で体を触られることを嫌がる私に対して、パンツを履いてまで風呂に入りたがった。
寝る前に、私の福耳の部分を撫でて、体を触りたがった。
まあ、異常なのだ。
16歳を超える頃、私は胸が大きくなったし、体も女として曲線が出てくる。
母は、「お父さんがどきどきしちゃうから、パジャマを着なさい」と言った。
ここで問題なのは、母もそれを認めて居るのだ。
私の父は、アルコールで問題行動を起こし、家のお金を使い込み、そして娘を女とみなす、クソ野郎だ。
そして笑えないのが、私の母親も、それを受け入れる「相互依存」の状態に陥っていたのだ。
昭和のお父さんと、お母さんという言葉を受け入れてしまえばいい。
だが、私の母親も恐らく、脳の病気か何かを抱えている。
娘が父親や兄弟にとって性的対象に見られることを普通だと捉え、
家族がいる前で生理がくる前の娘の性器を掴んで「ここで赤ちゃんができるのよ」とのたまい、そのくせ私に性的なものが近付くと嫌悪した。
生理になった時、私はそれを家族に知られるのが嫌でたまらず、汚れたパンツを引き出しにしまい込み、汚れものも一緒に入れて虫が湧いたことがある。
母はそのことに激怒し、パンツを洗わせて、必ずそのパンツを使えと言及した。
娘からセックスの匂いがすると激怒し、嫌悪するくせに、自分からはそれを話題にし、下品に笑いに変えようとする。
未だに彼女の考えていることは理解できないのだが、私なりに分析すると、要するに、
母は自分自身の性を嫌悪しているのだ。
娘を自分の同化と扱い、サンドバック扱いし、嫌悪し、ストレスを与え、そして理解を得ようとする。
これはカウンセラーが教えてくれてなるほどねと思ったのだが、
私は自分の心の声を反したことを今までしてきたが、それを正す力を持っている。
だが母は、自分の心の声に反して行動してしまうのだ。
どうしてなのか、おそらく。彼女は自分が嫌いなのだ。嫌悪している。
そして、自分の心の声を無視し続ける限り、その無間地獄は続く。
それでも、彼女は生きることを選んでいる。それは、確かな強さだと思う。
わたしには二人の兄が居るのだが、母はいつも兄達の茶碗もわたしに片付けるように言った。わたしは従わなかったが、そうすると激怒した。
兄達には甘え、可愛がり、あんたが一番よと言う。
そして、兄弟それぞれに違った情報を与えて、お互いがいざこざが起こるようにする。
無自覚でやって居るのだろうが、母は、自分の存在を愛されたいと思っている。
だが、女である自分を嫌悪するあまり、自己評価が低まり、モラハラ極まれりの父と暮らし、専業主婦で日々の雑務に追われている。
そんな両親の間に生まれたわたしは、30を越えるまで家を出られなかった。
物理的に経済的に無理だったのもあるが、
常に彼らに監視されて、自尊心を潰されていた。
信じられるのは最後家族だと教えこまされていた。
2年前、自分がアダルトチルドレンであるという自覚を得てから、わたしはようやく、家を出ることができた。
初めて自分の家で一人でベッドに横たわった日の夜は、忘れられない。
そこには、気が向いたら怒鳴りながら起こしにくる母は来ず、母を脅して金を毟り取って行く父の姿はない。彼らにジャッジされずに、私は自由にいられるのだ。
私のアダルトチルドレンとしての特徴
・極端な自己評価の低さ
・自信がなく周りに流される
・男性に対して、強い嫌悪感がある
・怒鳴り声に怯える
・家族に依存するように教え込まれている
アダルトチルドレンは、様々な文献で「サバイバー」と呼ばれることがある。
そう、「生存者」なのだ。
年間何万人ものアダルトチルドレンが、様々な方法で亡くなっている。
そして、その死の脅威から文字通り「生き延びた」私は、自分の家族について考えることがある。
この病気になってから、叔母や、何も知らない周りの人々から、カウンセラーと全てをわかってくれる友人以外から「最後は家族だから」と言われた。結局救ってくれるのは、助けてくれるのは家族の力なのだと。
だが、適応障害の診断を受けて、自分の性質を受け入れた、私は、思うのだ。
最後、それでも続く未来のために、生き延びるために、自分を大切にして、踏ん張ったのは、「私」なのである。
つづく
ADHDでACのオタクがパワハラ受けて適応障害になってEXILEが好きになった話(2)
前回までのあらすじ
無自覚なADHDにより自己評価の低いオタクがブスで自己主張の強いデザイナーのリーダー(お局)他のスーパー思考回路が低レベルな面々からの協力プレイにより心を病んで、会社を立ち去った。
クレイジーサイコマネージャーとの攻防
いつになったらEXILEの話が出るかと思うが、そこはちょっとお時間をいただきたい。
これは、個人的に心を病んで、診断書が出てからそのあとどうなったなどの手順を過去の自分に教えておいてあげたいので記しておく。
傷病手当がでるまでの経済状況
傷病手当が出る、と簡単にいうがこれには結構な労力がいる。
精神科医の診断書→会社に休職届けを提出→一ヶ月クリニックに通い、医師に傷病手当の申請書を書いてもらう(医師が書く欄がある)→二ヶ月後に傷病手当が出る
適応障害の診断が出てから、三ヶ月のバッファがあるのだ。その間、クリニックに通い、薬代、心理士とのカウンセリングもセットでしていると、
→診察代+カウンセリング代✖️8セット さらに、ここで初期費用の診察代や診断書代金などがかかってくる。
そしてここから肝心。三ヶ月無給状態が続くが、どうなるのか。
→最初の一ヶ月は、給料を前借りする形で貰えるが、二ヶ月目になんとその前借りした代金+会社が立て替えた住民税を請求される。
傷病手当が出るまでの三ヶ月の経済状況はどうなるかというと、
診察代+カウンセリング代金+薬代✖️8セット(2ヶ月目で2週間に一度の診察を勧められる。これは人にもよるので注意)+住民税3ヶ月分+前借りした給料1ヶ月分
これを全て立て替えなければならない。
さらに、一人暮らしの場合家賃と食費生活費などがかかってくるので、東京の一人暮らしが1ヶ月平均10万円くらいで暮らせるとなると、
御察しの金額になる。(自分の生活費、給料と照らし合わせて見て欲しい)
※診察代金、カウンセリング代金は病院によるのでその辺は調べて見て欲しい。
心の病で休職し、1ヶ月で病が治ってないのにもかかわらず経済的な理由で戻ってくる人も多いと聞く。
ちなみに、うつ病などの場合、保証が出るが、適応障害は出ない。
そのへんは色んな機関に出ていることなので、調べて欲しい。
ちなみに私はこのお陰で、海外旅行でもしようと思ってまとめて持っていた貯金が消えた。
最初の1ヶ月はまともに家を出ることができず、コンビニで買ったご飯を3日おきに食べるか、あとはもう寝ているかを繰り返して居た。それでも、月の生活費はそこそこかかったと思う。
こんなことをなぜわざわざ書いたかというと、
マネージャーはこの辺のことの告知を、一切しなかった。
適応障害の診断書と、休職届けとみなし勤怠と今後のことについて、話に行った時に、来月に給料の前借りした分の請求が来るなどのことは軽く言われた記憶があるが、それ以外の告知はなかった。
後に、なぜ教えてくれなかったかと問うと、彼は「ギリギリ精神状態の人にその話をして、その場で絶望して死なれたら困るから」とのことだった。
他のマネージャーにも聞いたのだが、これには告知義務(会社にもよるのでその辺は人事に問い合わせて欲しい)があって、彼の言い分は頭が狂っているとしかいいようがない。
クレイジーサイコパスなマネージャー
彼は、40代半ばで、ファーストコンタクトは7年前くらいだった。
その頃は、異業種からこちらの業界に映ったばかりで、彼は30代半ば、とあるチームのリーダーとしてそれなりの成績を納めていたように思う。
ちなみにその頃から私は彼とはあまり気が合わず、
物事を真剣に受け止めずに笑い飛ばす人だなあという認識だった。
彼がマネージャーになったのは、2年前くらいだったと思う。
マネージャーとしての評判はあまり良くなかったし、お局と自称IT向いてるリーダーは彼が余りにも適当だと言っていた。
私は、すでにお局との折り合いが最悪になっていたので、折につけて彼に愚痴ってはいた。だがその度に、笑い飛ばされて流されていた。
その時点で10年ほどこの業界にいて、彼のようなマネージャーは腐るほど出会ってきたので、私もそれほど気には止めていなかった。自分が彼のお陰でとんでもない目にあうまでは。
さて、そんなわけで私は自分で予約を取ったクリニックに行き、
精神科医に相談してその場で診断書が出された。その診断書に書かれている「適応障害」という文字を見て、自分がそんな病気だったのだなと思ったぐらいだった。
それくらい、会社に行きたく無かったし、その免罪符に感謝していた。
そして、クリニックに行った帰り、乗り換えのための少し屋根があるホーム手前で、私はマネージャーに電話をかけた。
メンタルクリニックに行き、医師に診断してもらい、適応障害という診断を受けて1ヶ月は休むということを。
「え? 何それ、ふざっけんなよ!? マジで!?」
という言葉を開口一番に発した。休日で、おそらく寝起きだった彼の本音だったのだろうと今でもはっきりと覚えている。
その後、医師の診断があるということを繰り返す私に、彼は少し冷静さを取り戻したのか、取り繕うためか知らないが、「急に休まれても困るし、その診断書を出さなければ行けない手続きがあるので、本社に来て欲しい。そしてその旨は他のメンバーにも伝える」というような解答だった。
その後母親にも電話してことの次第を伝えて、ひと騒動あるのだが、それは後でまとめて書くとして、ひとまずそこから3日後、私は取り敢えずの休養を経て、本社に書類を持って向かった。
憔悴しきっていて、本社へ向かう30分の電車でさえも、途中下車したり、歩くスピードも落ちているため、おそらく一時間くらいはかかったと思うが、とにかく本社に着いた。
そこで私を待っていたマネージャーは、応接間に私を通して、必要書類を書かせた。
私は、そこで、ふとメンバーたちはどうしているのか、私の残したライティングはどうなったのかという話をした。
要約すると、以下になるらしい。
責任を押し付けていた40代の仕事ができないおじさんが、私の仕事を引き継いでライティングをするという話になったらしく、自称ITが向いてるリーダーもそれに同意しそのようにして私の穴埋めを行うと言ったらしい。
マネージャーはそれを一蹴し、「お客様が求めるライティングのレベルを君達では保てないので、本社にそのライティングを引き受けるか、ライティングの案件を縮小する」ということにすると教えてくれた。
「そこでようやく、ハッとしてしていたから、君のライティングのスキルがどれくらいだったか、どれくらい負荷がかかっていたか彼らも理解したと思う」
となんか夕日をバックにスタバのコーヒーを手渡しながら微笑む優しい上司みたいなことをぬかした。
度重なるパワハラで自信を完全に失っていた私は、その場で泣く力もなかったと思う。ああ、そうですかと返して、彼に必要書類を手渡して、そして終わりになった。
私は10年以上も同じ会社にいるため、古い付き合いのマネージャーも何人かいて、私を心配して話しかけてくれるマネージャーがいた。
新卒3年目くらいから付き合いのある、娘さんが二人いる50代のマネージャーだった。
彼は、お局のこともよく知っていて、私の話をじっくり聞いてから、「君の言いたいことも分かるけど、俺は彼女のことをよく知っているし、そういうことをするとは思えない」というようなことを言って庇った。
それは、彼なりの正義というか、憔悴しきっている私に対する警告だったように思うが、その場ではわたしには逆効果だった。
言葉もなく泣き出す私に無言でティッシュを出し出して、
「ところでマネージャーの彼は、どうして君を本社に戻さなかったの? 人間誰しも合う、合わないが存在する。君は十分お客様先で年月を重ねて本社に戻って違う案件に付けるステータスだったと思うけど」
というようなことを聞かれた。私は、サイコパスが答えた通りのことを言った。
「いや、それはちょっと」
と言葉を濁してから、さらに私のしていた案件はどうなったのだと聞いて来た。
ライティングの件は、お客様と彼が交渉して縮小になるらしいですよと返すと、
「いやそれは無いだろう。彼は大丈夫なのか」
と聞かれた。
大丈夫では無いし、そもそもまともに人と話せる状況では無い私にそんなことを聞かれても知らねーよとしか思わなかった。
ここでの会話を要約すると、サイコパスマネージャーの行いが、完全にマネージャーの立場では常軌を逸する行動になっているということだった。
だが、そんなことはお先真っ暗の状態で治る見込みも、自分が仕事に戻れる保証もない状態のわたしにはどうでもよかった。とにかく早く家に帰りたかったのだ。
その後、しばらく連絡を取っていなかった新卒時代からお世話になっていた元上司(部署が違う)に挨拶の置き手紙を残して、家に帰った。
そこから、療養の日々が始まったのだが、
うちの会社はそこそこ大きな会社のため、療養1ヶ月目に「長期でお休みを取る貴方へ」みたいな冊子が届く。そこに、どれくらいで傷病手当が出るか、そのほか費用は住民税はいつまで払うかなどが詳しく書いてあった。
療養1ヶ月目の間は、はっきり言って記憶があまりない。ベッドとトイレと、1週間おきくらいにコンビニでようやくなにかを買ってきて、帰ってきて寝るようなそんな感じの生活だった。夜なのか昼なのかわからない時間にふと外に出て、そして家に帰ってきてぎりぎりの体力でお風呂に入って、そしてベッドの中でなぜか泣くような。そんな感じの、人の営みとはおおよそ遠い感じの、繭の中に引きこもっているような感じの生活だった。
2ヶ月目に、住民税やその他諸々会社が立て替えてくれているものを支払う月がやってきてようやく、冊子に書いてあったことの意味を理解した。
そこで、今日の記事の最初に戻るのだ。とんでもない支出が起きていると。
1ヶ月ご飯もまともに食べられず起き上がれもしない状態が続いたので、諸事情で実家に帰って療養することになった。
支出だらけで、貯めていた貯金もどんどん減って行く。その残高を見て、わたしは2週間に一度連絡が来たマネージャーに愚痴をこぼした。
「何でこれを最初に教えてくれないんですかね。こんなにお金が無くなるなんて」
当然の愚痴だと思う。療養に入っているのに、凄まじい支出で経済状態が悪化して行くのだ。心をケアしなければならない時期に、完全にまた一つのストレス要因が増えているのだから。
そこで、サイコパスなマネージャーの「ギリギリ精神状態の人にその話をして、その場で絶望して死なれたら困るから」に戻るのだ。
そしてさらに、彼は聞いてもいないのに
「君がパワハラを受けたというチームの人たち全員と面談して聞いて来たけど、彼らはみんな、君のためを想ってやったことだって言ってたよ」
と教えてくれた。何かのCMにもあったが、「人のためを思ってやる」という行為は、「ありがた迷惑」や「自己満足」という言葉に変換される。
その行為を行う人々は、「相手がこれを求めているという明確な発言とそれを確認し、認識のズレがないか共有し合う」という重要な項目が抜け落ちている。
そして、そんな人々は、得てして認識のズレに気付いても、その場しのぎのごまかしで自分の非を認めたがらない(個人的な感想である)。
ちょっと難しい言葉にしてしてしまったが、自分たちがパワハラしてましたなんて、本人達に聞いても「はいそうです、しました。あいつの存在自体が嫌いだし、ムカついたりイライラするたびに仕事を奪ったり罵倒を浴びせていました」なんて答えない。パワハラするような連中はその自覚は何もなし、自分が悪いとも思っていないし、相手のことなど何も考えていないからだ。
そんなアホな連中のご報告をそのまま受け取った上に、わたしにわざわざご報告して来たのだ。このマネージャーは。療養中で、ベッドの上でやっと電話しているような状態の人間に対して。
青龍刀があったら振り回しながら彼に走って向かっただろうが、銃刀法違反で捕まってしまう日本ではそれも叶わないし、そもそもうちに青龍刀はなかった。
だがそれくらいの、言い様の無い怒りを覚えた。
それと同時に、「こいつやべーぞ」とアラートが頭の中で鳴り出した。
その後2ヶ月間程彼と電話越しで話すたびにアラート機能が正しかったのだと悟るのだが、備忘録というような形で以下に記しておく。
傷病手当攻防
長期療養が必要で、その間会社で働けなくなった場合、その穴埋めように保証を受け取るに当たって、実は二種類の機関から受け取ることができる。
難しくて私も未だによく分かっていないが、
簡単に言うと、
交通事故など第三者の関与が原因で外傷を負ってしまった場合の人に支給されるお金と、
仕事が原因で心や体が病になってしまったために療養が必要になる人に支給されるお金、この二種類になる。
一つ目の方が、実は支給される金額は大きい。
私はパワハラを受けてこの病気になったという自覚があったため、当然一つ目のお金が欲しかった。
それが叶わなくとも、せめて彼らに一矢報いたい気持ちであった。
今でもそうだが、適応障害になって、私は電車にもまともに乗れないし(公共機関全般)、夜も眠れないし、家の外に出ることも、食べることさえうまくできなくなった。そんな状態になった原因の人々が、のうのうと今日も生きて美味しいご飯を食べて人並みの生活をしているのだ。
せめて、君は彼らが原因でこんな風になったんだよと言う、明確な保証が欲しかった。
だが、パワハラについての訴えを起こす場合、大きな障害がある。
まず、「明確な証拠」が必要になる。
そして、「第三者からの証言」も必要だ。
私はそのどちらも持っていなかった。
そんな私に対して、サイコパスなマネージャーは自分では私を制御しきれないと判断したのか、元上司H氏(私が置き手紙を残した違う部署の課長)に仲介を頼んだ。
元上司とのやり取りで、もにょもにょ否定するだけだったマネージャーの不明瞭な説明で怒り心頭の私が、パワハラの訴えを起こす場合、それだけでどれほどの労力、そして保証がおりるにせよ時間がかかるかも知った。
それだけの体力も、証拠にも自信がなかった私は、大人しく傷病手当(仕事が原因で療養が必要になり、補填のためお金をもらう方法)を受け取ることに同意し、今度は傷病手当の書類を進めて行くことになった。
傷病手当を受け取るには、申請書が必要だがそこに、なぜその病気になったかの状況を書かなければならない。
当然私は、そこに素直に自分が受けた状況を書いた。
「40代のディレクターにフロア内で叱責を受け、止めてもさらに罵倒を受けたため※それまで病気の兆候はあった」
サイコパスなマネージャーはこれにも難色を示した。
曰く「この状況だと、パワハラ受けているようなかんじに相手は受け止めるから、うまく傷病手当が出なくなるかもしれない」というようなことを宣った。
何を言っているのか分からなかったので、もう一度聞いて、彼は、嘘を書いてなるべくスムーズに傷病手当が下りるように促した。
こいつ何言ってんだと思いながら、元上司H氏にまた連絡して、彼に仲介に入ってもらっって解説してももらうに、以下のようなことがあるらしい。
傷病手当を出すのは、健保だがその審査に、パワハラをにおわせるような書き方の場合、審査が差し戻しになる可能性があるということだ。
だが、元上司H氏は続けてくれた。
「彼の言っていることはあまりにもナンセンス。この場合、可能性だけで君の心をないがしろにするべきではないし、それより問題なのは、嘘を書いて後で君が会社に戻る際に面接をうけるけど、そこで話のつじつまが合わない方だよ」
果たしてマネージャーの忠告を無視する形で提出した傷病手当の申請書は通り、その2ヶ月後無事傷病手当が出ることになった。
傷病手当攻防や、彼のセリフの数々に、病気療養中の私は彼の声を聴くと気分が悪くなるようになった。
そのため、電話ではなくメールでやりとりするようにお願いした。
社会人として、それは如何なものかと思う人もいるかもしれないが、私はそんなものより、自分の体の療養を優先した。
そうすると、自然と彼から連絡が減り、療養6ヶ月目からついに連絡が途絶えた。
手元にある会社から届いた「長期でお休みを取る貴方へ」冊子には、以下のようなことが書いてある。
「療養中は、2週間に一度くらいのペースで、上司と連絡を取りましょう。※体調の悪い時は、無理をする必要はありません。不安や療養について上司に相談し、連携を取って無理のない復帰を目指しましょう」
つづく
ADHDでACのオタクがパワハラ受けて適応障害になってEXILEが好きになった話(1)
この話を書くことについて
この話は、親友に勧められてエッセイを書いた方が良いと言われたので、
どうせなら、自分の奮闘記でも書こうかなと思ったことがきっかけだ。
これを読んで、誰かの心が傷ついたり、現在心の治療中の人は思い出してつらい気持ちになるかもしれない。その場合は、見ないで楽しい動画でも観ることをお勧めする。最近、わたしはHIKAKINさんの動画がネガティブ要素がなくてとても優しい良い動画だと思うようになった。その辺を観るのも良いんじゃないかと思う。
スペック
34才 女 身長は161センチ 痩せ型
エジソンと織田信長がなっていたらしい病気で有名なADHDの注意欠陥の方
簡単に言えば、家庭崩壊している家で育てられた子供(AC、アダルトチルドレン)
合法ニート(傷病手当を会社から貰っているため、病気療養中)
Webデザイナーとして同じ会社に12年?13年ほど従事
2年前からライターとしても仕事をするようになった
補足
小説家を目指して、投稿をしている物書き
同人活動歴15年くらい。
適応障害になるまで
適応障害の診断を受けたのは去年の9月頃。
適応障害がよく分からないと思うので、軽く説明すると、適応障害は鬱病とは違う。
特定の状況があまりにも辛すぎて、それに対応する気分とか行動とか色々と問題が出る。心のアレルギー反応みたいなものだと思う。ちょっと違うかな。心に大きな轍ができていて、行動療法や薬(医師による)によって、その轍をちょっと浅くするみたいな治療法しか取れない。(人によると思うし専門家ではないので、断言するのは怖いのでみんな調べよう)
要するに、治らない。対処療法が主の病気。
全然軽い説明じゃなかった。
その適応障害になったのは、9月の初め。といってもこれは医師による診断書が出ただけで、恐らく適応障害の症状が出て居たのはもっと前だ。
職場のモブアベンジャーズの説明
職場のことで何が起こったか、結論から言えば、全員がみんなモブだった。ワンピースの、作者がお遊びで入れてくれるあのへんなパンダマンみたいな人。
モブの人たちは、思考のレイヤーが0・5くらいなんだと思う(体感ワンピのキャラは思考レイヤー平均3くらいはあると思う)。
分かりやすく自己主張の強いお局のブス(デザイナーのリーダー)に嫌われて居たし、よく居る仕事ができない40代のおじさんに責任を押し付けられて居たし、職場に三人は居る結婚女磨きが人生の80パーセントを占めて居る30代の姉さんに仕事ができないことをリーダー経由で告げられて居たし、お局にデザインの花形仕事を奪われることを相談した横文字大好き自称IT向いてるリーダーには、「自分の好きな仕事をするべきなんだよね」と会うたびに言われた。
そんな思考レイヤー階層ほぼねーのに、アヴェンジャーズみたいなチームを求める浅はかな人たちは、私がミスをするたびに責めたし、ああやっぱり貴方は何もできない変人ですねみたいな扱いを受けた。
いや、お前が悪いんじゃねって私も思って居たし、ここまで読んだ人はみんな思ったと思う。
だが10年越えて仕事をしていて思ったのだ。会社で仕事をするというのは、チーム戦だ。攻守ともに100パーセント処理できるなんて人間は社会には存在しない。得意があって、不得意がある。
私は、凡ミスがあるし、集中力が高い方ではなかったが、ライターとしては処理能力が優れていたし、デザイナーとしては色彩感覚やデザインの感覚値がお客さんの望んだラインを逸脱することはなかった。
現に、そのクレイジーなモブアベンジャーズに入る前は、それなりに社会人としてやっていけていた。自分がADHDだと気付かなかったのだ。私の不得意なことしてくれた優しいヒーロー達ほんとありがとう。
例えば、どんなに仕事ができないといっても、その人間に対して、高圧的な態度をとるべきではないし、パワハラはするべきではないのだ。人は、仕事をする権利があるのだから。
心のダムが決壊した日について
話は逸れたが、そんなモブアベンジャーズの活躍により、私は体調がどんどん悪化していった。
こころの病気になると朝起きれないというが、いやあれ本当だった。
自分は関係ないと思っている人は、みんなダムが崩壊するまでわからないんだと思う。残念ながら、リスクはみんな抱えているし、誰でもどんなタイミングでも心が病気になる可能性はあるのだ。
私は背中がとにかく痛かった。今でも痛むが、今その背中の痛みは自分が限界サインなど思うことにしている。アラート機能が背中についている私マジ凄いと思うことにしている。思うしかない。
症状が悪化していくと、朝は起きれない。電車にどうにか乗っても、気持ち悪くなって途中下車を繰り返す。諦めて帰ることもあった。
先程チーム戦という話をしたが、そのチームに自分が合わないのであれば、自分がそのチームを離れるという選択肢が社会人には存在している。自分で辞める権利もあるのだ。
当然自分の心の限界を感じていた私は、マネージャーにチームを離れたいと伝えた。
私はお客様先に派遣される部署に所属されていたので、一度本社に戻してもらって、ほかのお客さん先のチームに入れて欲しいと申し出たのだ。
のちに、クレイジーサイコだと判明するマネージャーが私の願いを却下した。というか、まあまあといなし続けた。
理由は簡単だ。お客さんから評価を得るライティングを出来る人間が、私しか居なかったからだ。
※ちなみにこのライティングの所為で本職であるはずのデザインの仕事が圧迫されるし、お局にデザインの花形仕事を奪われる言い訳にされ続ける。
果たしてその日は訪れた。
心のダムが決壊したのだ。通常のダムは猛烈な雨量や台風によって引き起こされるが、私の場合は40代の仕事ができないおじさんによってだった。
元々表面張力ギリギリまで張り詰めているダムだったので、おじさんの自己責任を全部私に丸投げして怒鳴りつけるスタイルによって、簡単に決壊した。
※ちなみに自称ITが向いてるリーダーは、おじさんが私を怒鳴りつけている状況をほかのメンバーに確認して、「そんなに怒鳴りつけているとかいうほどではなかったと思う」とわざわざダムが崩壊中の私に報告してくれた。
おじさんの前から立ち去って、マネージャーに泣きながら電話して、それでもとりあえず次の日は休みにしてまた来てくれというようなことを言われた。
またしてもいなされたのだ。
私はそこで、オタクの相方に電話をした。彼女は某金融機関の某チームのマネージャーをしている非常に有能な女である。
彼女に言われたことは、今でも忘れない。
会社を辞めたいと言った私に彼女は冷静に「辞めたいなら辞めてもいい。でも、貴女をそんな風にさせた責任は会社にある。その状態で会社を急に辞めてもお金の問題があるだろうから、まずは医者に行って診断書を貰って、お医者さんと相談して傷病手当を貰うなり、取れるものを取ってから辞めたらいい」と言ってくれた。
私は彼女との電話を終えてすぐに、自分の家から一番近くて、著名なクリニックを予約した。
その間に、フロアには戻れないし、どうしようかと思っていると自称ITが向いてるリーダーに愚にもつかないような話し合いの場を設けられた。
※後に判明したのだが、彼は私のライティング能力が、異常に高く、お客さんの求めるラインに他のメンバーではそれがカバーできないレベルになっていることに気づいて居なかった。
リーダーになだめられつつも、自分の中ではもう、この場所に居られないだろうことは悟って居たので、取り敢えず近々の締め切りに対応できるようにライティングの仕事だけは終わらせて帰った。ダムが決壊しているのに。多分終電近くまで作業して居たと思う。
ちなみに途中まで隣にお局が居たが、彼女のことを殺しそうなほど怒って居たので、席を外して違う場所で作業をした。
家に帰って、痛む身体をベッドに横たえて、ようやくこれで全てが終わると思って目を閉じた。
夜明け前の空は暗いと言うが、いや余りにも暗すぎたし、わたしには明けることがないんじゃないかと思えた。
正直死にたかったし、涙しか出なかった。全ては膜の向こう側の出来事で、幸せな出来事なんて遠くの世界でしかないんだと思った。
そんな33才の夏の終わりの出来事。そう、のちに気付いたが後厄だった。
つづく